第69回PHP賞受賞作

古賀友子

岡山県・公務員・50歳

子供のころ、斜め裏に住む遠藤のおっちゃんが嫌いだった。神社の境内で私たちが遊んでいると、「ここは遊ぶ場所じゃないぞ。公園行け。公園」と追い払われることがしばしばあった。なるべく声を出さないように遊んでいても、遠藤のおっちゃんは子供がいるこがなぜかわかるようで、10分もしないうちに家から飛び出してくる。

私たちは遠藤のおっちゃんの姿が見えると、「はぁ」とため息をつき、神社をあとにしなければならなかった。いつの日からか、「遠藤のおっちゃん」ではなく「めんどうなおっちゃん」と呼ぶようになっていた。

少し先に行けば大きな公園があるが、そこはソフトボールチームの練習場所になっていて、練習がない日でも上級生の男子たちが我が物顔でいるので、怖くて入ることができなかった。

遊ぶ場所をなくした私たちは、上がってもいいよと言ってくれる家を探してさまよい歩き、見つからない日はそのまま散歩だけをして帰ることになった。

「めんどうなおっちゃん、どこかに引っ越さないかなぁ」。誰かが言った声にみんなで大きくうなずいた。遠藤のおっちゃんさえいなければ、みんな幸せなのにと私も思っていた。

お母さんたちの間でも、おっちゃんのことはよく話題になっていた。「奥さんが亡くなってからますます頑固になっちゃって」「あんなんだからお子さんたちも寄りつかないみたいよ」。そんな話がもれ伝わってきた。

おっちゃんの涙

遠藤のおっちゃんはいつも怒ってばかりいたので、泣いている姿を見たときは本当にびっくりした。それは、夏休み中の登校日のことだった。8月6日。全校生徒が体育館に集められ、広島に原爆が落とされたときのことを先生や町の人から聞く時間があった。そこに、遠藤のおっちゃんの姿があった。

おっちゃんは壇上で1分間黙祷したあと、さっと敬礼をし、「友人の多くが戦争で命を落としました。私の真横で親友は顎を吹き飛ばされて亡くなりました。最後のあの目を、何年たっても忘れることはできないのです」と、ボロボロと大粒の涙を流した。両方の鼻から鼻水がたくさん出ていたが、それを拭うこともしなかった。その気迫は、体育館にいる全員から言葉と愚弄の笑顔を消し去った。

5年生になってすぐのことだった。私は朝、みんなと学校に行くことができなくなった。4年生までは普通に行けていたのに、学校に行く時間になるとおなかが痛くなったり頭が痛くなったりするようになった。さぼりたかったわけではなく、本当に痛かったのだ。あのときの私にどんなストレスがあったのか、何がいやだったのか、今でもわからない。

だけど、どうしてもみんなと同じ時間に行くことができなかった。朝礼が始まる8時半を過ぎ、通学路に小学生がいなくなったことを確認すると、ようやく学校へ向かうことができた。誰にも会わず、こっそりと学校にたどり着きたかったのに、交通整理をしている遠藤のおっちゃんはまだそこにいた。

やさしくかけてくれた声

私は怒られるのがいやで、あいさつもせず下を向いたまま通り過ぎようとした。するとおっちゃんが「焦らずゆっくり行けよ」と声をかけてくれた。怒られると思っていた私はびっくりして、下を向いたまま足を速めた。

次の日もまた、おっちゃんは通学路に立っていた。信号のない横断歩道をなかなか渡れないでいると、手を挙げて車を止め、私を渡らせてくれた。そして「渡りたいときはいつでも手を挙げるんだぞ。君は手を挙げる勇気だけ持てばそれでいい」と言って、ランドセルをポンポンと2回たたいた。

次の日もその次の日も、おっちゃんは学校までの道のどこかに立っていて、声をかけてくれた。いつも怒ってばかりで、わかり合えない世界の人だと思っていたけれど、朝のおっちゃんの声は、誰よりもやさしかった。

5月初旬の日曜日、私はスーパーにお菓子を買いに行った。ほしいお菓子を選びレジに並んでいると、隣の列の少し前に、遠藤のおっちゃんが並んでいるのが見えた。おっちゃんは私に気がついていないようだった。

おっちゃんはお惣菜を1つと、白いカーネーションを持っていた。そうか、今日は母の日なんだ。私は並んでいた列を抜け、お菓子を棚に戻し、カーネーションを1本買った。

次の日から、みんなと同じ時間に学校に行けるようになった。理由はわからない。ただ、おっちゃんの人目をはばからない泣き顔、下を向いて歩いた日にかけてくれた言葉、カーネーションを持ってレジに並ぶ背中、そんなおっちゃんの姿が、あのときの私を強くしてくれた。おっちゃんは今、奥さんや友達と、おだやかに楽しく過ごしているだろうか。

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