第70回PHP賞受賞作
木村奈音
東京都・会社員・26歳
新入社員として会社に入って1年が経つ。最初は何もかもが新しく、緊張ととまどいの連続だった。けれど、少しずつ仕事を覚え、自分の役割が見えてきた今、ほんの少しだが社会人として地に足がついてきた気がする。
そんなある日、プレゼンを終えた翌日に、先輩に呼び出された。「昨日のプレゼン、お疲れ様。君の提案、すごくよかったよ。ただ1つ、ずっと気になっていることがあって」。
その言葉を聞いた瞬間、背中に一瞬緊張が走った。ほめられた直後の「ただ1つ」が、まるで鋭い針のように胸に引っかかる。何を指摘されるのか、内心びくびくしながら身構えていると、先輩は少しほほえみながら続けた。
「全然責めてるわけじゃないんだけど、君、質問が少ないから大丈夫かなって。不安とかない? それとも、聞きにくい雰囲気があるのかなって、気になってさ」
その言葉に、私ははっとした。たしかに、ほかの同期と比べて、先輩に質問する回数が少なかったかもしれない。だがそれは、一度聞いたことはしっかりメモを取って、自分で何とかしようと努力していたからだ。自立しているつもりだった。でも、本当にそうだったのだろうか。
その日の仕事終わり、先輩から「ちょっと一杯、どう?」と誘われた。正直、私は会社の飲み会があまり好きではなかった。形式ばった雰囲気と、気を遣う会話に疲れてしまう印象が強く、避けていた。けれど、その日は不思議と断る気にならなかった。
「仕事は一人じゃできないからさ」
向かったのは、駅の近くの小さな居酒屋だった。のれんをくぐると、外のざわめきが噓のように消え、ほの暗い照明と煮込みの香ばしい匂いに包まれた。カウンターに並んで座ると、目の前には湯気を立てる小鍋と、棚にずらりと並んだおちょこや焼酎の瓶たち。初めて来た場所なのに、どこかなつかしく、心がふっとゆるんだ。
ビールの泡が弾ける音が心地よく耳に響き、徐々に会話がほぐれていく。先輩は、少し照れたように笑いながら、昔の話をしてくれた。
「私もね、若いころは何でも自分で解決しなきゃって思ってた。頼るのは甘えだって思い込んでた。でもあるとき、上司に言われたんだ。『人に頼れる人が、いずれだれかにとっての頼れる人になるんだよ』って」
その言葉は、不思議と胸にすっと染み込んだ。まるで、ずっと求めていた答えに出合ったような感覚だった。「仕事ってさ、楽しいことばかりじゃないじゃん。プレッシャーもあるし、失敗することもある。だからこそ、そういうときに本音を言える相手がいるって、すごく大事なんだよ。今日こうして飲みに来てくれたの、すごくうれしかった」。
少し酔いが回った私は、思わず心の奥にしまい込んでいた気持ちをこぼしていた。「......正直、いっぱいいっぱいでした。ミスはできないって思って、気を張りつめてばかりで。でも、だれかに弱音を吐のも怖かったんです」「そうだよね。ありがとう、言ってくれて。君はまじめでがんばりやだから、周りが気づきにくいんだと思うな。でも、頼っていいんだよ。仕事は一人じゃできないからさ」。
その言葉は、涙がこぼれそうなほど優しかった。カウンター越しに漂う料理の香り、隣の席から聞こえる楽しそうな笑い声、少し照れたように笑う先輩の表情。すべてが、まるで夢の中のように温かく、おだやかだった。
次は私が「頼れる人」に
私は今、あの飲みの席を心から大切に思っている。仕事に追われて苦しいときも、失敗して落ち込んだときも、思い出すのはあのカウンターのぬくもりと、先輩のまっすぐな言葉だ。最初は苦手だった飲み会も、今では心にそっと灯る時間になっている。
仕事のやりきれなさも、忙しさも、不安も、あの時間があったから乗り越えてこられたのだと思う。頼ることは、甘えじゃない。信頼とぬくもりを育む、大切な一歩なのだ。
それから、私は少しずつ変わっていった。定期的に相談をするようになり、わからないことは素直に聞くようにした。先輩と方向性をすり合わせることで、新しい視点を得られ、仕事も前よりスムーズに進むようになった。
そしてある日、同じチームに後輩が配属された。気がつけば、私は自然と相談を受けるようになっていた。あのとき先輩が私にしてくれたように、私もまた、後輩のちょっとした変化に気づけるようになっていた。
「頼れる人が、いずれだれかにとっての頼れる人になる」。先輩の上司から先輩に受け継がれた言葉のバトンは、先輩から私へと受け継がれた。次は、私が後輩にとっての「頼れる人」になる番だ。

