第70回PHP賞受賞作

藤崎殊海

愛知県・会社員・46歳

泣かなくなったのは、いつからだっただろう。もうすぐ勤続25年になる。振り返れば、新人のころはよく泣いていた。

目標が達成できなくて、事務所に戻りづらかった日。電話でお客様に初めて怒鳴られた日。とんでもない失敗をしてしまった日。営業車の中で、事務所のトイレで、階段で、帰りの電車の座席で。こっそり、時には大声をあげて、泣いた。

あの日も私は泣いていた。会議で理不尽な上司と口論になって。どう考えても上司のほうに非があった。けれど、そんな事実はどうでもいいとばかりに怒鳴られる。周りの人たちも「ああ、またか」みたいにあきらめた表情でただうつむくばかり。

早くこの時間が終わってほしい。上司に理解してもらうことをあきらめて、私もみんなと同じように黙ることを選んだ。悔しくて、悲しくて、それでも仕事は終わっていなくて、会議のあとでもう一度営業車に乗り込んだ。一カ所、書類の回収が残っていたのだ。

部長は「会議より書類の回収を優先していいよ」と言ってくれていたのに、あの上司が理不尽に怒鳴ったせいで遅くなった。運転しながら、どうしてもこらえきれず涙が止まらない。なんであんなふうに言われないといけないんだろう。

いつもあの上司は感情的に言葉を浴びせてくる。もっと少ない言葉で冷静に指摘だ

けしてくれたらいいのに。半分以上は、愚痴混じりの罵倒でしかない。

ぼろぼろ泣いて、取引先に着くころには化粧が落ちて目が真っ赤になってしまった。小さな車内灯で照らしながら鏡を見る。うわあ、ひどい顔。それでも、書類はどうしても今日中にもらわなければならない。

さっと行って、さっと帰ろう。不幸中の幸いか、この取引先は何年も通って人間関係がすっかりできている、なじみの店舗だ。多少変に思われるかもしれないが、失礼だと怒 られることはないだろう。

何も聞かずにいてくれた副店長

意を決して、車を降りる。なんとなく足早になりながら、いつも通り店舗へ入った。「こんばんは。お世話になります」。声をかけると、奥から副店長が出てきた。私の顔を見て一瞬表情が固まったけれど、副店長は何も聞かず「ああ、書類ね。いつもの場所に入ってるから、確認して持ってって」とだけ言い、仕事に戻って行った。そのさっぱりした態度が、今の私にはありがたい。

事務所内にお邪魔して、いつもの椅子に腰かけて書類を確認する。枚数、印鑑、記入箇所。涙でかすんだ目で見落としがないように、いつも以上に入念にチェックした。

もう、今日はこれ以上いやなことが起きてほしくない。最後の仕事くらい気持ちよく終わりたい。そんなことを考えながら、十分程度で作業は終わった。

言葉にならないあたたかさ

「ありがとうございました」。声をかけて立ち去ろうとしたとき、ちょっと待って、と奥から声がした。ガサガサと音を立てながら副店長が戻ってくる。手には小さなビニール袋。「これ、持ってって」。何かわからず、両手でそれを受け取って小さく中をのぞく。

それはパンジーの鉢植えだった。今月お得意様に配っている贈呈品だ。「きれいねえ」と、にこにこ受け取っているお客様を何回か目撃したから知っていた。

「これ......」。いいんですか、とか、お客様用ですよね、とか。続けたい言葉は無数にあった。けれど、どれもうまく続かなかった。それ以上口にしたら、また涙があふれてしまいそうだったから。

あざやかに咲くパンジーをそっと助手席に置いて、暗い夜道を事務所まで帰った。安全運転で帰ろう。そう思いながら。

あれから何年も経って、今の私はもう泣かなくなった。もしかつての私みたいに悲しむ後輩がいたら、あの日のパンジーのようなあたたかさを、心に渡してあげたい。そう思いながら、今日も生きている。

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