第70回PHP賞受賞作

八巻孝之

宮城県・医師・62歳

医師として歩み始めたころ、私は常に「正しい診断・正しい治療」を最優先にしていました。それが患者さんにとって最善だと信じていたからです。若さと熱意にあふれ、医学書を片手に最新のガイドラインを追いかけ、先輩医師の指導に忠実に従う毎日。私の世界は、数字とデータで描かれる白黒の秩序で満たされていました。

その秩序に従えば、患者さんの幸せは、自然に訪れるものだ――そう信じて疑いませんでした。

しかし、あるご高齢の患者さんとの出会いが、私の世界を揺さぶりました。おだやかな笑顔を絶やさない方でしたが、その顔には長年の病と孤独への疲れが、わずかににじんでいました。丁寧に治療方針を説明したつもりでしたが、その方は静かにこう言ったのです。「先生の言っていることは、まちがっていないと思います。でもね......もう少しだけ、私の気持ちも聞いてもらえませんか?」

胸に重い衝撃が走りました。医学的に正しいことが、必ずしもその人にとっての幸せとは限らない――。私は、数字や画像所見にとらわれ、患者さんの心の声に耳を傾けることを忘れていたのです。「医療とは、人に寄り添うことなのだ」と、心の底から気づかされた瞬間でした。

それ以来、私は診療において「正しさ」と同じくらい「優しさ」を大切にするようになりました。患者さんが不安やとまどいを抱えているとき、まずその思いを受け止めること。数字やデータで説明する前に、「今どう感じていますか?」と尋ねること。その小さな一歩が、信頼という形のない絆を築き、結果として治療の効果にもつながることを、私は経験を通して学びました。

言葉にできない悲しみや不安に寄り添う

ある日、若い患者さんが、小さな子供を抱えて診察に来ました。妊娠中の合併症で、私は早急な入院を勧めました。しかし、彼女の瞳には子供や家庭への不安がにじみ、涙が頬を伝っていました。医学的な説明をいくら重ねても、不安は消えません。

そこで私は、診察室の椅子から少し離れ、そっと手を取り、言いました。「無理をしなくていいですよ。大丈夫、私たちがサポートしますから」。

その瞬間、肩の力がふっと抜け、その瞳に安心がゆっくり差し込んだように見えました。後日、彼女は治療に臨み、出産も無事に終えました。優しさと寄り添う心があってこそ、患者さんは安心して前に進めるのだと、私は実感しました。

別の夜、重篤な高齢患者さんが救急搬送されました。延命治療を続けるか否かの判断を迫られ、家族は迷い、痛みに耐える患者さんの顔を見つめていました。

私はまず医学的な最善策を説明しましたが、いったん言葉を止め、そばに座って家族の話を聞きました。言葉にできない悲しみや迷いを、時間をかけて受け止めました。そして、家族は涙を流しながらも納得のいく決断を下し、患者さんはおだやかな最期を迎えることができました。医学的な正しさだけでは救えない心がある――そのことを深く胸に刻んだ瞬間でした。

診察室での一言一言を大切に

62歳となった今、私は多くの患者さんと向き合い、数えきれないほどの喜びや悲しみに立ち会ってきました。経験を重ねるほど、「正しさ」と「優しさ」のバランスを取る難しさを痛感します。正しい治療を提供しながらも、その人の生活や心に寄り添うこと。それは、医学の知識だけでは成し得ない、医療の核心です

今も診療の前に自分に問いかけます。「この治療は正しいか? そして優しいか?」この2つの視点を忘れないことが、患者さんとの信頼関係を深め、医師としての私を成長させてくれるのです。あの患者さんの言葉――「もう少しだけ、私の気持ちも聞いてもらえませんか?」―― は、4半世紀以上の医師人生を通して、私の胸に深く刻まれています。

正しさだけでなく、優しさをもって患者さんと接することで、初めて「人を救う医療」が完成するのです。これからも、医師として患者さんの心に寄り添い続けたい。診察室で交わす一言一言が、患者さんの未来を変える可能性を秘めている。その信念を胸に、私は今日も患者さんと向き合いたいと思っています。

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