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【総力特集】明治天皇

世を照らし続けて

Column1

硬骨漢に囲まれて育った祐宮

祐宮(睦仁親王)は、ご生母中山慶子の実家である中山忠能邸でお生まれになった。養育係となった忠能は、公家ながら気骨溢れる人物で、祐宮へのご期待も大きかった。

ご養育に励んでいたある時、忠能は不機嫌な面持ちで宮中から帰宅し、
「今日は何ということか、皇子はご学問中に席を立って奥にこもってしまわれた。こんなことでは学問が身につくはずがない。今までご養育に尽くしてきたが、私ごときでは手に負えぬから、辞表を置いて来た」
とひどく立腹していた。そこへ御所からの使いがやって来て、怒りが収まらぬままに参内すると、祐宮は、
「本当に私が悪かった。もう繰り返さないから、私の面倒を見てほしい」
と仰り、忠能は感激して、それからも養育係をお勤めしたという。

中山邸の址は現在も京都御苑内の一角に残るが、そこに「祐の井」という井戸がある。これは祐宮ご誕生の翌年に日照りが続いたために、忠能が掘ったもので、多くの人々の喉を潤した。後年、明治天皇は次の一首をお詠みになっている。

「わがために汲みつとききし祐の井の水はいまなほなつかしきかな」

中山家には、他にもご養育にあたった硬骨漢がいた。忠能に仕える田中河内介もその一人。大柄であった河内介が幼き祐宮をお抱きして歩いたり、四つん這いの馬になってお相手したという。

河内介はその後、勤皇の志士として活躍するが、文久2年(1862)に薩摩藩士同士が衝突した寺田屋騒動で連座し、護送される途中で殺害された。後年、その消息を薩摩藩出身者に明治天皇がお訊ねになったところ、皆、言葉を詰まらせたという。

また、忠能の七男で勤王活動に身を投じた忠光は、明治天皇の叔父にあたり、幼き祐宮の遊び相手となったという。文久3年(1863)に大和で挙兵した忠光もまた、非業の最期を遂げた。

明治天皇は、幼き日にこうした硬骨漢に囲まれながら、逞しくご成長されていたのである。