宗次德二(カレーハウスCoCo壱番屋創業者)

1948年生まれ。1978年、カレーハウスCoCo壱番屋を創業。1982年、株式会社壱番館を設立し代表取締役社長に。会長を経て、現在は特別顧問。2003年、音楽の振興、ホームレスへの支援などのためNPO法人イエロー・エンジェルを設立し理事長に。

 

幼少期に「どん底」を経験した宗次德二さんの根底には、どんな思いがあったのでしょうか。

私は53歳まで、「カレーハウスCoCo 壱番屋」の経営に心血を注いできました。朝4時に起きて5時前には出社する日々でした。

 

出社して、まずするのは、お客様ハガキに目を通すこと。そこに書かれた苦情やクレームは、お客さまからのアドバイスです。お詫びしなければならないものはすぐ対応し、お褒めの言葉は全店で共有しました。そうやって、毎朝3時間ほどかけて「お客さまからのラブレター」に目を通してきました。

周りの人々には、「なぜそこまでするの?」と思われていたかもしれません。ですが、ヒト・モノ・カネのない素人が経営者としてやっていくには、「真心を込め続ける、“超お客様第一主義”」を貫くしかなかったのです。

「接客で笑顔があふれる店にしたい」という情熱と、「やがては地域一番店を目指す!」という目標がありましたから、多少の苦労も、苦労とは思いませんでした。

それこそ、美味しい酒を飲んだり、ゴルフで気晴らししたりする必要もなく、「人に喜んでほしい」という思いで行なう仕事で、日々は充実していました。二人三脚でやってきた妻の存在も大きかったです。
 

家具はリンゴ箱一つの幼少期

振り返ってみれば、私のどん底時代は、幼少期だったのかもしれません。

生まれてすぐ孤児院に預けられた私は、3歳で養子に出されました。養父は生活保護を受けながら、日雇いの仕事をやって、稼ぎの大半を競輪につぎ込んでいました。

家は六畳一間で、家具はリンゴ箱一つ。電気も通っておらず、ろうそくでの生活です。

当然、私のことはほったらかしでした。

学校から「明日はお弁当を持ってきなさい」と言われても、持っていく弁当がない。同級生たちが食べ終わって校庭に出てくるまで、隠れていたりもしました。

また、子どもの頃の私の日課は、パチンコ屋さんの床に落ちている煙草の吸殻を拾って帰ることでした。

「お父ちゃん喜ぶだろうな」って、それをリンゴ箱の上に置いておくと、養父はそれを煙管につめて、夜に立て続けに吸っていました。

そんなめちゃくちゃな養父でも、唯一の同居家族でしたから、どうしても嫌いになれませんでした。養父に喜んでほしい。そのために、コツコツと煙草の吸殻を集める。その経験が、私の礎をつくっていったのです。

高校に入る直前に、養父ががんで亡くなり、養父に愛想を尽かせて出て行っていた養母との生活が始まります。初めて家に裸電球が灯り、中古のテレビが点きました。

また、中学の頃から冬休みには住み込みで、お米屋さんのお餅つきのアルバイトをしたり、高校時代は、同級生のお豆腐屋さんで毎朝一時間働かせてもらってから登校したりと、自分なりに自活の道を探ってきたのです。
 

何ごともコツコツ続けてみる

当時は深く考える暇もなかったからか、「自分は不幸だ」「どん底だ」と思うこともなかったですね。

ですが、今振り返ってみて初めて、幼少期の経験があったからこそ、経営者としてやっていけたのだな、と思えます。

早起きもずっと続けているのですが、やはり初めの頃は起きるのがつらかった。それでも、続けていると「早起きって百利あって一害なしだな」と思えるときが来ます。

ですから、何ごとも続けてみないと見えない景色があるのではないでしょうか。コツコツ続けてみて初めて、「あー、頑張ってよかった!」と思えるときが来るんですね。

53歳で「CoCo壱番屋」を次期社長に譲ってからは、2003年に「イエロー・エンジェル」というNPOを立ち上げ、音楽・スポーツ・福祉・ボランティアなどの各分野において、夢や目標を持ち続け努力している方々を応援する活動を続けています。

引退した直後から、「社会貢献をしたい」という思いがあり、それを形にしてきたのです。

こうしてみると、私の人生は全部成り行きなんです。でも、やり始めたことは、真心を込めてコツコツ頑張ってきました。そして、ずっと一貫して根底にあるのは、「人に喜んでほしい」という思いです。
 

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