第57回PHP賞受賞作

吉澤恵子
埼玉県北足立郡・自営業・31歳

「来週、また引っ越すの。ごめんね……」

申し訳なさそうに話す母。私は大丈夫だよ、と言ってふっと息を吐く。
私が小学生の頃、転勤族だった我が家は、2年に1度は転校することが当たり前だった。
いつも「また、この時が来たか」というくらいの心持ちで母の言葉を受け止めていた。

仲のいい友達ができていたら、離れ離れになるのは悲しい。それに、よそ者である私は、新しい場所で、もう出来上がっているグループに入れてもらわなくてはならない。

ただ、悪いことだけではない。転校とは、一からやり直す機会をもらえるということ。
いじめを受けても、地獄は長く続いて2年。
そうしたら、またリセットできる。

次に行くところはアタリかハズレか。アタリだったらある程度楽しい毎日を送って、別れが辛くならない程度に親しい友人を作る。
ハズレだったら空気のように過ごす。ただそれだけだ。引っ越す先は、だいたい同じ北海道内だったけれど、車で5、6時間かかる場所は、当時の私にとっては外国と同じだった。

どうせ、いつか会えなくなるのだ。仲よくなっても無駄なこと。
今になって思うと、私はどこか達観した子どもだった。
 

あの子の家に遊びに行かないか

何度目かの転校をした数カ月後。一本の電話が友人との再会の時を連れてきた。それは前の学校の担任の先生からだった。
「今度のゴールデンウィーク、君が一番仲のよかった、あの子の家に遊びに行かないか」

先生は私と、その友人の両親にも相談をして、私が友人の家に泊まれるように連絡を取ってくれていた。遠いのに、と言いかけると、
「私が責任をもって君を迎えに行って、ちゃんと家まで送り届けるから。大船に乗ったつもりで、な?」と言われた。
約束の日、私はソワソワしていた。

何しろ目的地まで5時間程ほ ど、先生と二人きりなのだ。学校の「先生」とそんなに長い時間を過ごすのは、私にとっては未知のことだった。しかし、無言のまま、気まずい5時間だったら、というのも杞憂に終わり、先生は楽しい話をたくさん聞かせてくれた。

先生の話が面白いと私がほめると、
「そうだろう? 先生は君の何倍も生きているからね。経験豊富なのさ」
そう言って豪快に笑った。教室で見ているときには気づかなかった。こんな顔で笑う先生だったのか。

あっという間に友人の家に着いて、先生は、明後日また迎えに来るからね、と言い残して車でどこかに行ってしまった。

私は三日間、とても楽しい時間を過ごした。彼女と枕を並べ、夜が更けるまで語り合った。早く寝なさいと彼女の母親に怒られてからは、布団を被って内緒話をした。そうだ、私は、彼女が本当に好きだった。
「なぜ、お別れ会で渡した手紙にお返事をくれなかったの? 住所も書いていたのに」
少しむくれた彼女の表情にハッとする。私は諦めていたのだ。もう会えないなら思い出さないように、記憶に蓋をしていた。
 

絆を断っちゃ駄目だ

束の間の懐しい時間を過ごし、再度別れの時がやってきた。学校のお別れ会では堪えることができたのに、声も押し殺しきれずボロボロ泣いた。

帰りの車の中、私は、先生のせいで余計に寂しくなった、どうしてくれるのだ、と八つ当たりをした。恩を仇で返す私に、先生は静かに語りかけた。

「この距離は今の君にとって、とてもとても遠いものだろうね。大人の力を借りないと、友人に会いに行くこともできない。でもね。この距離は、成長するにつれてどんどんどんどん近くなるよ。君は転校が多いから出会いにも別れにも慣れすぎて、本当の価値が分かっていないんだ。いいかい? 一期一会は宝だよ。人と人との繋がりは、きっと君を助けてくれる。絆を断っちゃ駄目だ。手紙を書きなさい。年に一度、年賀状だけでもいいから」

私は全て見透かされたような気がして、恥ずかしくなって俯いた。

それから私は何通も何通も、過去の友人たちに手紙を書いた。うわべだけの関係を修復したくてポストを覗く日々が続き、時代は変わり10年が経った。

「遂に私も定年退職しました。よかったら遊びに来てください」

先生からの年賀状をもらって、急いで飛行機のチケットを取った。ただの社交辞令かもよ、と心配そうに言う母に、「でも先生だって、迎えに来たじゃない」と言い返す。

先生、私はあなたほどの人に、出会ったことがありません。寛容で、道しるべのようで。
先生、先生、長生きしてね。