第五十七回PHP賞受賞作

見澤由美
(埼玉県所沢市・主婦・60歳)

 

「死んじゃったら終わりじゃんか」
病床の母に、私はそう吐いた。
私が中学二年の夏、母は胃ガンで余命宣告を受けた。手術をすれば長く生きられるが、寝たきりになる可能性もあった。
治療費は高額で、すでに父は消費者金融から数百万円もの借金をしていた。夜中にかかってくる取り立ての電話が、まるでサイレンのようで、とても怖かったことを覚えている。
当初、両親は余命のことも、借金のことも娘の私には隠し通すつもりだった。しかし、母の病状が悪化したことから、言わないわけにもいかなくなった。
あるとき、延命治療はせず、このまま最期を迎えると両親から告げられた。
死刑宣告を受けたような絶望感だった。真っ先に父を責めた。なぜ延命治療をしないのか。どうして母をこのまま死なせるのか。
しかし、母はこうかばった。
「あなたたちに迷惑をかけるわけにいかない。あなたもすぐ、二十歳になる」
私は思いきり泣きついた。母のいない世界も孤独も、想像できなかった。
そして、ひたすら病気や、お金のない運命を呪った。病気さえなければ、母は普通の生活ができるのに。私だって当たり前に学校に通って、大人になっていけるのに、と。
その冬、母は帰らぬ人となり、手紙と仏壇だけが残された。ひとり娘の私に宛てられた、たった一通の手紙だ。
開けたかったけれど、それを読んだら、母のところへ行きたくなってしまう気がした。
時計の針は進んでも、私は「母が死んだときの私」のままだった。寂しさが湧きあがるたびに指をしゃぶり、髪をかきむしった。
この孤独を救える人は、もう誰もいないと思っていた。父は忙しかったし、母親と歩く友達の姿は目の毒でしかなかった。「かわいそうに」という言葉が、余計に私を苦しめた。
家に帰っても誰もいない。あのサイレンのような電話の音だけが、私を待っている。心配してくれる母はもういないし、門限もなかったので、夜遅くまで人通りの多い街をふらつくようになった。

父も辛かったんだ

そんなとき、警察に補導された。迎えに来たのは、薄汚い格好をした父親だった。頭を深く下げて、私の手を引いた。私はその手を振り払って、父の後ろを歩いた。
帰り道、会話はなかった。父の背中が小さく見えた。去年母と買いに行った父の靴は、もう履きつぶれていて、時の流れを感じた。
母さえ死ななければ。母さえいれば。もう死にたい。死んで楽になりたい。そんな思いがどうしようもなく膨れ上がった。
それをぶつけたくて、一言つぶやいた。
「死んだほうが楽だ」
「バカ言え」
父の返答はこれだけだった。
しかし、そう返してから、父は急に鼻をすすりだした。泣いているのか。確かめようとしたけれど、よく見えなかった。私の目にも大粒の涙が浮かんできたからだ。
父も辛かったのだ、と初めて気がついた。
残された者の気持ちは、当事者にしかわからない。父も、やっぱり母がいなくなって、辛くて不安で、どうしようもなかったのだ。
家に着いてから、父は無言であの手紙を渡してきた。
父は、私に死ぬなと伝えたいのだ。でも、うまく言葉にはできないから、今この手紙を渡してきたのだと、そう思った。
私は手紙を開いた。なつかしい母の字だ。
読んでいくと、私の心を見透かしたように「死」に対するメッセージがあった。

もうひとりぼっちではない

「死ぬのと同じくらい避けられないこと、それは生きることよ。
生きている限り、いろんな壁にぶつかるけれど、そこで死んではならない。お父さんのため、今日を生きたかった母さんのために生きるの。
壁にぶつかったら、それをバネにして愛する人のために生きなさい」
確かに母の字ではあるが、言葉にできない父の愛情もどこか感じた。これは私を育ててくれた、両親二人の言葉だ。だから、もうひとりぼっちではない。そう、確信した。
それから私は変わった。高校へは行かず、家を出て住み込みで働いた。
慣れない生活に度重なる失敗。辛くて、また寂しくなる。そんなときはあの手紙を開いた。母の字を見れば、苦しさをはねのけることができた。
還暦を迎えた今、命の儚さや時の流れの速さを噛みしめる。少し切なくなる自分がいる。
だけど、母が残したものだけは、色あせることなく、今でも私の光となっている。