第58回PHP賞受賞作

臼木 巍(愛知県知多郡・会社経営・七十五歳)

中学二年生の七月。定期試験も終わり、間もなく夏休みに入る、最も気分のゆったりとしているときだった。
そうした時期の体育の授業の終わりに、先生が突然、クラス全員に「ノート」の提出を求めた。思いもせぬその言葉に、教室中に驚愕の声が沸き上がった。
雨天時には教室で先生の講義があるが、みんな実技ばかりに興味を示して、満足にノートを取る者はあまりいない。先生は熟知していた。「三日中には全員、職員室まで持ってこい!」という先生の声で、体育の授業は終わった。
動揺した。仲間のそれとはまったく別の意味で。私の使用している「ノート」は、あまりにも粗末な代物だったからだ。広告紙の裏を利用し、それを綴じ込み、ノートの代用品としていた。
私にとって、貧しさと恥ずかしさの証で、一番触れてもらいたくないものだった。クラスで恥をさらすのは耐えられない。相談できる者などいなかった。
その日の夕刊の新聞配達を終え、配達先の集金作業を行ない、翌日の折り込み広告の整理と段取りを終えると、夜の八時。夕食をとる気力もなく、店の二階の下宿部屋に引きこもった。全身から力が抜け落ちたように、三畳の部屋に倒れ込んだ。どうしたらいいのか、どう考えても、答えは出せなかった。

贅沢は言えない

新聞専売所二階の下宿生活は、もう一年近く続いていた。私一人だけが中学生で、あとは大学生以上がほとんどだった。
店の人が心配そうに顔を見せてくれたが、先生の昼間の言葉が強烈に胸に残っていた。この日の疲労は特別だった。
翌朝の三時、朝刊の準備で店が騒がしくなっても、先生の言葉が耳元にあり、まったく寝付くことができなかった。
長男の私は、家への仕送りが必要だった。父は北海道の炭鉱で三度の倒産にあい、それからは長年定職に就けず、各地を放浪の末、遠い友人を頼り一家で横浜へ移住した。が、仕事運はなく、私の給料が我が家の貴重な収入となっていた。
給料を送金したときの、母の安堵した顔を思い浮かべることが、私の一番の幸せだった。新聞専売所へ下宿できたのも、事情を知った店主の計らいと恩情からだった。
そうした生活の中で、唯一恵まれていたのが、新聞専売所の「紙」だった。毎日の折り込み広告が無数にあり、広告配達の依頼が絶え間なくあった。倉庫には配達残りの広告がいつも無造作に積まれていた。 店主に断り、この広告紙に裏面の白いものがあれば、いつも五十枚ほど分けてもらい、綴じてノートの代わりとした。
すべての学科の「ノート」が広告紙の裏だった。市販のノートは一冊として購入しなかった。当然、学科ごとに「ノート」の大きさも異なり、表紙などはなかった。紙質も鉛筆の 滑りも悪く、でも贅沢は言えなかった。

負けるな、諦めるな、絶対に!

「ノート」の提出にいい案など思いつかず、時間ばかりが非情に過ぎた。
最終日、覚悟を決めた。放課後、職員室に友人たちがいないことを見定め、入室した。
先生は先刻から待っていて、最終提出者が私であることを告げた。頭を下げ周囲を気にし、表紙のない広告紙の「ノート」を提出した。唖然とした先生の表情があった。
もう正直に、一切の事情を打ち明けるしかなかった。家庭生活、父の失業、相次ぐ転校、母への仕送り、新聞店での下宿......。
話をしながら、悔しさと羞恥心で肩がふるえ、涙が流れだした。体中が熱くなり嗚咽がとまらなかった。先生は一言も発さずに、うなずいて聞いてくれた。
一週間後、「ノート」の返却で職員室を訪れた。先生は私を見据え、「絶対に負けるな! 諦めるな! いいか!」と諭しつつ、両手を私の肩に置き、何度も押さえつけた。
手のぬくもりを感じた。自分を理解してくれる人がここにいる。大きな安堵感と歓喜で言葉も出ず、胸がいっぱいになった。
返却された「ノート」には「整然としています」と評価があり、最後に先生の大きな字で「負けるな、諦めるな、絶対に!」と力強く二度書かれていた。
広告紙の「ノート」は新品のバインダーに綴じられて、別に真新しいノートが三冊、先生から手渡された。
先生の言葉が書かれた「ノート」は、今も手元にある。これまでの自分の長い旅路で、一体何度この言葉を凝視し、かみしめ、挫折と闘い、蹴飛ばし、無事帰還してきたことか。
先生にいただいた三冊のノートは贅沢過ぎて使えず、今も私と共に人生を歩いている。