月刊「PHP」2021年4月号 裏表紙の言葉

人は心の奥に、自分だけの記憶の木を育てているのではないか。生まれた時の記憶はなくとも潜在意識が根となり、やがて意識の芽が生じれば、年年歳歳、人が互いに発する種々の言葉や映像が枝葉となって、いつしか記憶の木が育っている。
そんな記憶の木から、時折なつかしい思い出がぽとりぽとりと落ちてくる。ことさら長い歳月を経れば、母親に叱られたことや、級友と歓喜の涙を流したことといった、遥か昔の思い出が鮮やかに甦り、憩いの時をもたらしてくれる。
そうした思い出たちは過去の記憶の一片でありながら、実は今の私たちを満たしているのだから、過ぎ去ってはいないものといえよう。そう考えると記憶は私たちの人生そのもので、常にみずみずしく回顧できるものであってほしい。
記憶の木を養うには、諸々の工夫があろう。けれども、何にも増して日々ここに自分がいることへの感謝、何が起きても受け止める覚悟、二つの真摯な思いが、記憶の根を張るには最良の養分のように思えてくる。