第62回PHP賞受賞作

鎌田誠
北海道札幌市・無職・73歳

私は小さいころに一度だけ、母のえんじ色の角巻に入って一緒に歩いた記憶がある。雪が降っていた。しかし、母のぬくもりと角巻きのあたたかさで、ちっとも寒さを感じなかった。
角巻きと言ってわかる人は少ないだろう。大きめの四角い厚手の毛織物で、三角に折って使う。背中から、あるいは頭から、すっぽりと羽織るのだ。
母の実家は昔、ニシン漁で栄えた北海道石狩湾の奥の小さな町で、呉服屋をしていた。ニシンがたくさん獲れたころは、質屋もしていた。母のえんじ色の角巻きは、問屋を通じて関西から仕入れ、母が25歳で嫁いだときに一緒に持ってきたと聞いた。
父とはお見合い結婚だった。
父は50歳のとき、末期の子宮がんの母を献身的に看病して、看取った。子どもの大学合格発表をラジオで聞いて泣いた母は、すでに病魔に侵されていたのだ。気づいたときに は手遅れだった。47歳の若さだった。母を看取った父は、10キロも痩せていた。
年月を経て、年老いた父も入院し、まもなく自宅介護の生活となった。記憶や頭はしっかりしているものの、少しずつ妄想や幻覚が現れた。

「いいお母さんでなくて、ごめんね」

はじめは、天井や壁に、文字や雲が見えると言い出した。暗くなると見えることが多いようだった。私が父と普通の会話ができるのは、昼間だった。
調子のいいときは、軍属のころのことを話してくれた。昔の記憶は、抜群に冴えていたのだ。
「末弟は、ガダルカナルで戦死したんだ。ある日、家に、血のついた洗面道具入れが届いたんだ。骨箱には、石が一つだけ入っていたよ」
「広島に新型爆弾が落とされたと聞いて、戦争は終わるなと思った」
と詳しく話してくれた。
亡くなった母は、30代のとき、年下の苦学生と恋をしていた。子どものころ、私はそのことを知っていた。目撃したこともある。
母は、息子に疑われていることを知っていた。
「いいお母さんでなくて、ごめんね」
私にそう言って、母は亡くなった。青春を戦争に奪われた母にとって、はじめての恋だったのかもしれない。
私は、そのことを誰にも言うまいと決めた。しかし、大人になってから知ったことだが、父は気づいていたようだ。どれだけ母のことで悩み、苦しみ続けたのだろうか。
私は、父が晩年の妄想のなかで、そのことを口走ってしまうのではないかと不安だった。いや、何か言って逝くだろうと、覚悟を決めていた。
「発車オーライ! おじいちゃん起こしてくれ。みんなホームで並んで待ってる。ナッパ服(※青い色の職工服のこと)着せてくれ」
父は、戦後、国鉄に勤めた日々を見ている。
一時持ち直して、車いすに乗れるまで回復したある日のことだ。突然、父が言った。
「お母さんが、窓の外に立っていた。何も言わずに、こちらをじっと見つめていた。外は吹雪だった。初枝! と名前を呼んで近づいたら、後ずさりして去っていった。着物にえんじ色の角巻き姿だった」
その日は初夏の暑い日で、窓にはいつもレースのカーテンがひかれていた。

母は、父を迎えに来た

別のある日、調子がよかったのか、
「起こしてくれ」
と父が言った。起こしたあと、少し間があった。父は、窓の外の空を見つめた。
「お母さんは、ごめんねって誤ったから。吹雪のなか、えんじ色の角巻き羽織って、迎えに来てくれたから」
ぽつりと言った。あとは何も言わなかった。
その一週間後に、父は亡くなった。
「何も遺してやれなくて、ごめんな」
それが、父の最期の言葉だった。90歳まで、誠実に生き抜いた父の言葉。
私自身、4年前から人工透析をする生活になった。週に3回、4時間の透析人生だ。生かされているなぁと思う。
三年前には、感染性心内膜炎・僧帽弁不全症の心臓手術で生死をさまよった。そして再び、一週間後に、心臓・僧帽弁の再手術が待っている。
私にも近い将来、晩年の父のように、妄想や幻覚が見えるときがやってくるのかもしれない。そのなかで、私は最期に何を見るのだろう。誰と出会うのだろう。そして、何を語るのだろう。
父が幻覚で見た、着物にえんじ色の角巻きを羽織った母。古希を過ぎて、父母の最期の言葉が、胸によみがえるのです。