第62回PHP賞受賞作

沖田陽介
愛知県尾張旭市・団体職員・43歳

父親が柔道をしていた影響からか、私は中学生になると同時に柔道部に入部した。私立の中高一貫校で、中学・高校ともに、全国優勝を成し遂げたことのある名門であった。
私が入学したころは、県内での優勝も難しくなりつつあったが、5人の先生の指導のもと、毎日厳しい稽古が続けられていた。
そのせいか、中学1年生のときには、10人以上いた同期も、3年生の夏の大会のころには5人くらいになっていた。
同期全員が初心者だったので、県で優勝することは難しいと思っていたが、地区大会の結果を見るかぎり、ベスト4くらいは狙えるんじゃないかと思っていた。
そして迎えた、中学生最後の県大会の団体戦初戦。先取点を期待した先鋒の溝口と次鋒の私がいいところなく引き分け、悪い流れを作ってしまった。相手にひとつとられ、そのままあっけなく敗退。
散々だったその翌日は、個人戦が行なわれた。昨日のふがいない試合から立ち直れないまま、私は65キロ級に出場。
なんとか2回勝ち上がったものの、厳しい相手だと思われた準々決勝で敗退した。
一方で、私と同じように、団体戦で悪い流れを作ってしまった同期の溝口は、55キロ級に出場し、順当に勝ち上がっていった。
優勝候補と目されていたほかの強敵選手が続々と敗れるという番狂わせはあったものの、昨日の鬱憤を振り払うかのような熱戦だった。
決勝戦では判定にもつれこんだが、ついに優勝。全国への切符を、つかみとった。

おおいに胸を張ればよい

ベスト4以上の選手のみが参加する閉会式が行なわれるなか、個人戦を終えた選手たちが武道館の一角に集められた。昨日に続いて内容の悪い試合をしてしまった私は、先生から何を言われるのかと戦々恐々としていた。
「昨日は残念だったが、今日はひとり、全国大会に送り出すことができた。同じ道場からひとりでも、全国へ選手を送り出せたこと。このことに、君たちは胸を張っていい」
先生の言葉は、予想外のものだった。試合で負けたときも涙を流さなかったのに、この言葉に、私は自然と泣けてきてしまった。
結果は出せなかったものの、努力が少しだけ認められた安堵なのか。それとも「送り出される側」になれなかった悔しさなのか......。
物思いにふけっていたとき、何も知らない溝口が賞状を手に、きょとんとした顔で戻ってきた。そんな溝口を、みんなで迎え入れた。
それから、私たちはほぼ同じメンバーで、高校でも柔道を続けた。
最後の大会では、愛知県団体ベスト4という結果を、それこそ奇跡のような形でもぎとって、無事、引退することができた。
精神的にも体力的にも、あれほどしんどかった柔道。
もう部活からは解放されたはずなのに、結局、大学の4年間でも柔道を続け、40歳を過ぎた今では、趣味程度に練習に参加し、やっと心から柔道を楽しめるようになった。
私が大切にしている言葉に、「自他共栄」がある。柔道の創始者である嘉納治五郎先生が、指針として掲かかげた言葉のひとつだ。
たがいに助け合い、信頼することで、自他ともに栄える。
中学時代、みんなで練習にはげんだものの、結果として全国大会に進めたのはひとりだけであった。でも、その結果は、みんなで喜べばよい。おおいに胸を張ればよい。私が、救われた言葉である。

柔道を通して気づけたこと

今でも、当時の柔道部の同期とはよく会っている。溝口が、ひとりだけ全国大会に進めたことを、自慢することはない。
口をついて出るのは、高校最後の団体戦で敗れ、チームに迷惑をかけてしまったことや、まわりに救われたといった反省の弁ばかりだった。
あのとき私も、勝ち上がって全国へ行きたかった。そう、考えることがある。
実社会に出ても「勝ち組」や「負け組」といった、とにかく勝ち負けを意識させられることの連続なので、目に見える結果がほしかったのかもしれない。
中学のときに勝てなかった私は、何も得ることができなかったのだろうか。そう自分に問いかけることもあるが、私はすがすがしい気持ちだ。
私が得たものは、チームを代表して「送り出される側」になったときに感謝できる仲間。そして、「送り出す側」になったときも、そのことを喜び、胸を張ってくれる仲間だった。
当時は意識していなかったが、こういった仲間を持てていた学生時代を過ごせたことや、そのことに気づかせてくれた恩師を持てたことを、私は心から幸せに思っている。