第63回PHP賞受賞作

田口秀造
長崎県島原市・無職・72歳

遠い昔、かれこれ60年ほど前の話だが、炭鉱の町にあった私の家には、水道が引かれていなかった。
家から50メートルくらいはなれた共同水道から水を汲んでくるのが、中学生の私に課せられた仕事だった。天秤棒の両端にブリキのバケツをかけ、肩にかついで運ぶ。水をこぼさないように慎重に歩みを進める。
水瓶と五右衛門風呂を満杯にするには、数回往復しなければならない。私はひ弱ではないものの、体格がいいわけでもなく、肩に食いこんだ天秤棒が痛かった。その日も学校から帰ると「めんどうくさいな」と思いながら、いやいや水を運んでいた。
水瓶を満杯にして風呂の水を汲みに行こうとしていたとき、選炭婦の母がめずらしく早く帰ってきたようだった。私は母を一瞥し、一言も発さず天秤棒をかついで水汲み場へ向かった。そんな振舞いが気に障ったのか、母はこう言った。
「どうせ、せにゃいかんなら、いやそうな顔でせんで、笑顔でせんね。おまえのごたっとを『ひゅーなし』て言うとたい。小遣いをやろうかと思うが、やる気もせん」
「ひゅーなし」とは、長崎弁で無精者のことを言う。唐突にそう言われると、無性に腹が立ってきた。
「小遣いはいらん。そのかわり、水汲みもせん」
そう悪態をついて、私は外に飛び出した。

母に諭されて

ひとしきり外で遊んで帰ってくると、五右衛門風呂は水で満杯になっていた。母は、帰ってきた私を見ても何も言わず、夕飯の支度を始めた。
気まずくなった私は、居間のちゃぶ台で、勉強をするふりをした。思えば、無精者の私は、母の小言をこれ幸いと役目を放棄したのだ。
仕事で疲れて帰ってきた母に尻ぬぐいをさせたと思うと、少し胸が痛んだ。母も職場でおもしろくないことがあったのではないか。だから私の仏頂面を見て、イラッとしたのかもしれない。かといって今さら機嫌を取りにすり寄っていく気にもなれず、母が声をかけてくれるのを待っていた。
しばらくして、夕飯の支度が一段落したのか、母が私のそばに座った。姉さんかぶりの日本手ぬぐいをはずし、乱れた髪に手ぐしを入れて一息つくと、じっと私を見つめた。そして、さっきまでとは打って変わって、おだやかな口調で諭すように話した。
「これから先、おまえが大きくなったら、楽しかことばっかりじゃなか。いやなこともいろいろあるやろ。おまえみたいに『ひゅーなし』で仏頂面してたら、だれからも相手にされんばい。いやなことも、少しくらいつらいことも、笑顔でせんば」
ふだん荒くれ炭鉱夫に交じって働いている母が、おだやかなはずがない。どういう風の吹き回しなのだろう。この日のことは、いつまでも忘れられなかった。

仕事での学び

それから数年後、専門学校に入った私は、学費の足しに書店でアルバイトを始めた。
当時は、児童書を訪問販売する外販部門があった。お客さまへのアプローチから、商品説明などの流れを一通り教えてもらうと、現場へ同行する。団地やアパートを一階から順にまわって売りこんでいくが、そう簡単には買ってくれない。
5、6軒続けて断られると、しだいに気持ちがなえてくる。別の場所に移動しても失敗の連続で、実を結ぶことはなかった。
ある日、ベテラン社員に連れられて団地をまわることになった。その人も言葉のなまりが強く、「どがんまわり方しよっと」と聞かれた。今までのやり方を伝えると、
「そいじゃ売れん。まわる軒数も少なか。笑顔で話しよるとね? 本ば売ることばかり考えんで、話し相手になったつもりで語らんね。そいと下から上って行くけん途中でいやになると。まず最上階に上がるとたい。そしたら帰らにゃいかんけん降りんばやろ、そのついでに、一軒一軒まわりながら降りれば、訪問軒数も増える」
と話された。先輩も苦労してこの方法を思いついたにちがいない。教えてもらったことを根気よく続けていると、いつしか数件の契約が取れるようになっていた。
母と先輩が教えてくれた「笑顔と根気と工夫」。それらは、「ひゅーなし」の私を支えてくれる暗示となり、今も耳からはなれることはない。