歴史おもしろデータ [歴史街道]


総力特集「真田幸村と後藤又兵衛」から

真田丸の攻防(布陣図)


大阪の陣を彩る豊臣方豪傑列伝

塙 団右衛門(ばん・だんえもん)

 「お前は一軍の大将となる器量にあらず」
 関ケ原の戦いの時、配下を放り出して一人で突撃してしまったために、主君の加藤嘉明(よしあき)から罵倒された塙団右衛門直之。これに腹を立てた団右衛門は嘉明を見限り、出奔する。嘉明も団右衛門を「奉公構え」として、他家に仕えることができないようにした。
 その団右衛門が憂さを晴らす機会こそ、大坂の陣であった。冬の陣講和成立の四日前、長陣で気が緩んでいた徳川方の蜂須賀至鏡(はちすかよししげ)の陣を夜襲し、敵将中村垂勝(しげかつ)ら三十数人の首をとる。この時、「夜討の大将塙団右衛門」と記した木札をばらまき、両軍に勇名を轟かせた。
 そして夏の陣。団右衛門は念願の一軍の大将として紀州路へ出陣する。しかし己が先鋒を任されたはずが、岡部大学の部隊が先行していると聞いて激怒し、またもや一騎駆け。浅野長居(ながあきら)軍に突撃して奮戦し、壮絶な戦死を遂げたのである。

長宗我部 盛親(ちょうそかべ・もりちか)

 関ケ原の戦いで西軍に属した長宗我部盛親は、土佐二十二万石を没収され、京で寺子屋の師匠となっていた。そこへ、豊臣方より旧領回復の打診を受け、勇んで大坂に入城する。
 夏の陣では藤堂高虎(とうどうたかとら)隊と激突。先鋒隊を破られた盛親は、本隊の兵三百を下馬させて槍を持たせ、長瀬川の堤防の上に陣を敷いた。そして藤堂隊が十間(けん)先まで肉迫した時、一気に槍を構えた兵を突撃させた。その勢いにたちまち藤堂隊は壊滅。高虎の甥の高刑(たかのり)をはじめ、藤堂家中で役に立つものは残らず戦死したといわれるほどの大打撃を与えた。
 しかし、敗色濃厚な戦況をみてとった盛親は、大坂城を脱出し、執拗なまでに生への執着を見せる。捕らえられた時も、出家をするからといってまで命乞いをしたが、京の六条河原で斬首(ざんしゅ)された。処刑の前に、「なぜ自害しなかったのか」と嘲(あざけ)る者に対し、「命と右の手さえあれば、家康や秀忠を同じ目にあわせられるかもしれぬからだ」と答えたという。

木村 重成(きむら・しげなり)

 「御血判少しく薄く御座候」
 冬の陣の講和調印式の際、徳川家康の血判が薄いとして、再び指を切らせて血判を押し直させた男が、弱冠(じやっかん)22歳の木村重成であった。この若武者は背が高く、雅(みやび)やかな姫君のように気品に満ちていたという。
 重成は夏の陣を死場所と期していた。戦いを前にして、傷口から食物が出るようなぶざまなことがないようにと、食事を節制していたのもその覚悟の表われである。
 最後の出陣は五月六日。若江(わかえ)で藤堂高虎隊と激闘となり、これを打ち破る。しかし休む間もなく井伊直孝(なおたか)隊と遭遇。家臣たちが止めるのを払いのけ、単騎で突入し、見事な最期を遂げた。その兜には香がたきしめられており、敵将たちは若武者の覚悟に感じ入ったという。

毛利 勝永(もうり・かつなが)

 「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」
 江戸中期の文人神沢杜口(かんざわとこう)は、毛利勝永の奮戦ぶりをこう賞賛した。
 夏の陣での道明寺の戦いの時、真田幸村と毛利勝永は濃霧のために後詰が遅れ、後藤又兵衛らを死なせてしまう。一説に「これで命運も尽きたか」と落胆し、討死を覚悟する幸村を、勝永は、「ここで死んでも益はない。秀頼(ひでより)様の前で華々しく死のうではないか」と激励し、退却の指揮を執ったという。
 そして翌日の天王寺口(てんのうじぐち)の戦い。幸村は茶臼山(ちゃうすやま)、勝永は天王寺南門から突撃。勝永は本多忠朝(ただとも)と小笠原秀政を討ち取り、家康本陣に迫る。しかし、あと一歩のところで幸村隊が壊滅したため、勝永もやむなく退却を強(し)いられた。大坂城に戻った勝永は、秀頼の介錯を務めて後、長男勝家とともに自刃(じじん)した。

明石 掃部(全登)(あかし・かもん(てるずみ))

 宇喜多秀家(うきたひでいえ)の家老であり、キリシタンだった明石掃部は、関ケ原の戦いで敗れた後、一説には縁戚(えんせき)の黒田長政(ながまさ)のもとに身を寄せ、その後、消息を絶った。
 掃部が豊臣方についたのは、江戸幕府が禁教令を発布(はっぷ)したことに危機感を抱いたためだ。掃部にとって大坂の陣は、全国のキリシタンを守り、布教活動を存続させるための戦いであった。掃部のもとには畿内や北国からもキリシタン武士が馳せ参じ、その数は八千にも膨(ふく)れ上がったという。信仰のために死ぬことを栄誉とする、恐るべき精鋭部隊である。
 夏の陣では幸村の策により、家康の背後を突くべく船場(せんば)に潜伏。しかしその策が失敗すると掃部は十字架を掲げ、三百の兵を率い、徳川方へ突撃したというがその後、掃部の姿を見た者はいない。
 
 他に真田幸村とともに最後の突撃を行なった、大谷吉継(おおたによしつぐ)の息子・大学(幸村の甥)、冬の陣の汚名を道明寺の壮絶な討死で返上した薄田兼相(すすきだかねすけ)、冬の陣では徳川軍についたが、夏の陣では秀頼のもとに帰参した増田盛次(ましたもりつぐ)(長盛の子)なども、大坂の陣を鮮やかに彩る活躍を見せた。