歴史おもしろデータ [歴史街道]

総力特集「篤姫と幕末動乱」から / 特集「長宗我部元親の野望」から


総力特集「篤姫と幕末動乱」から
篤姫・和宮時代の大奥組織図


特集「長宗我部元親の野望」から
「土佐出来人」を支えた男たち

香宗我部親泰

(こうそかべ・ちかやす)

 長宗我部国親(ちようそかべくにちか)の三男で、元親(もとちか)の弟。香美(かがみ)郡の香宗我部氏の養子に入る。永禄12年〔1569〕、安芸国虎(あきくにとら)の滅亡後、安芸城主となった。外交手腕に優れ、天正10年〔1582〕の本能寺の変後、信長の後継者・豊臣秀吉と対立した柴田勝家、徳川家康との折衝を任され、元親の四国平定を有利にした。

長宗我部弥三郎

(ちょうそかべ・やさぶろう)

「身の丈(たけ)六尺一寸、色白く柔和にして言葉少なく、礼節を重んじ、時には冗談はいうが無作法でなく、家臣たちを分け隔てなく愛し、父母を大事にした」
 元親の嫡男、弥三郎に対する評である。武勇に秀で、聡明であった彼は元親から溺愛された。天正8年〔1580〕、元親が信長と誼(よしみ)を結んだ際に、弥三郎は烏帽子親(えぼしおや)の信長より「信」の一字を与えられ、信親を名乗る。以降、元親につき従って四国各地を転戦、その覇業を助けた。
 天正13年〔1585〕の四国平定直後、元親は秀吉の大軍の前に降伏。土佐一国のみを安堵された。翌年、元親は秀吉に島津征伐への参陣を求められる。信親も出陣し、豊後戸次川(ぷんごへつぎがわ)で島津軍と対峙(たいじ)した。このとき豊臣軍の軍監・仙石秀久(せんごくひでひさ)は無謀な渡河作戦を命ずるが、信親は父元親とともに反対。しかし、かつての宿敵・十河存保(そごうまさやす)に卑怯者呼ばわりされた親子はやむなく出撃し、島津得意の伏兵戦術「釣り野伏(のぶせ)」を仕かけられてしまう。
 元親はいち早く戦場を離脱したが、信親はもはやこれまでと、家臣700余とともに戦死。その壮烈な最期に敬服した敵将は信親の遺骸を丁重に扱い、元親に返還した。しかし、愛する嫡男の死を知った元親の落胆は激しく、心の痛手はのちのちまで消えなかったという。

谷 忠澄

(たに・ただずみ)

 土佐神社の元神官。その智謀を元親に見出され、帷幄(いあく)に参じた。秀吉の四国征伐時は阿波一宮(あわいちのみや)城を守っていたが、もはや抗戦の不可能なことを悟り、元親に和睦(わぼく)を提言する。元親は激怒するが、忠澄は断固として主張を曲げなかった。戸次川の戦いでは、戦死した信親の遺骸を島津方から受け取る使者を務めている。

長宗我部盛親
桑名弥次兵衛

(ちょうそかべ・もりちか)
(くわな・やじべえ)

 盛親は、元親四男。兄信親の戦死後、その生まれ代わりと信じた元親により偏愛され、世継(よつ)ぎとされる。しかし、慶長5年〔1600〕、関ケ原合戦で西軍に属した盛親は、戦わずして領国に帰り、謝罪もむなしく土佐二十二万石を没収された。以後、秀頼の誘いにより大坂入城をはたすまでは、京都で寺子屋の師匠として過ごす。慶長20年〔1615〕、大坂夏の陣では藤堂高虎(とうどうたかとら)隊と遭遇。川堤を背に兵を折り敷かせ、敵勢が近づくと一斉に槍を突き出す戦法で、藤堂隊の重臣6名を討ち取る大戦果をあげた。関ケ原合戦以来の土佐武士の無念を、ここに晴らしたのである。
 この際、かつて長宗我部の家老であり、くしくも藤堂家に仕えていた桑名弥次兵衛は、新旧当主への恩義と忠義の間で苦しみ、ほとんど自殺的討ち死にを遂げた。その首をみて、盛親もまた涙したと伝わる。盛親の最期は徳川方に捕えられて首を刎(は)ねられたとも、大坂より逃亡して僧侶になったともいう。

吉田政重

(よしだ・まさしげ)

 初陣(ういじん)となる天正10年の中富川(なかとみがわ)の戦い以来、大坂の陣に至るまで、生涯で挙げた首級(しるし)はなんと115個。まさに長宗我部家きっての猛将である。朝鮮の役では敵将を生け捕りにする武勲をあげた。関ケ原合戦後は浪人をしていたが、大坂の陣では盛親の許へ馳せ参じ、再び槍を振るった。
 大坂落城後は土佐に帰り、医者として余生を終えた。