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【総力特集】真田信之と幸村

「六文銭」の誇りを貫く

コラム1

実年齢は? 名前は? 幸村の謎

戦国武将の中でも屈指の人気を誇る真田幸村だが、意外にも、その実年齢は諸説あって判然としない。真田家重臣が編纂した『左衛門佐君伝記稿』には、永禄10年(1567)生まれとある。一方、「長国寺過去帳」にある没年から逆算すると永禄13年(1570)生まれとなる。前者ならば信之より1歳年下、後者ならば4歳年下となるのだ。

この問題については、真田家重臣編纂という筋目を重んじて前者を採る研究者がいる一方、天正13年(1585)に幸村が上杉家の人質となったことに注目する研究者もいる。上杉家の史料は幸村を「弁丸」という幼名で記しており、そうなると元服前の、より年齢の低い永禄13年生まれが妥当というのだ。

さらに複雑なのが、信之と幸村の通称だ。信之は「源三郎」、幸村は「源次郎」。それゆえ幸村は妾腹の出で、信之より実は年長ではないか、とする向きもある。もっとも、『加沢記』は、幸隆三男である父・昌幸を「源五郎」、四男、信尹を「源次郎」としており、出生順と通称は無関係だ。現時点では、幸村の年齢は確定できないのである。

実年齢だけでなく、「幸村」の名の由来も実はわかっていない。周知のように、史実における幸村の実名は「信繁」で、武田信繁を敬愛する昌幸が命名したともいう。幸村の名が文献上初めて確認できるのは、寛文12年(1672)頃成立の『難波戦記』で、この書が人気を博し、幸村の名が広まったという。

ではなぜ、幸村なのか。一説に、真田家の通字「幸」と幸村の姉・村松殿の「村」を合わせたという。また、幸村の子孫が仙台伊達家に仕えたが、軍記作者に取材を受けた際に、時の藩主・伊達綱村の一字を混ぜ入れたという説もある。しかし、綱村と名乗ったのは『難波戦記』成立の6年後のことで、名の由来も決め手となるものはなく、幸村は実はいまだ、多くの謎に包まれているのである。なお、本特集では便宜上、「幸村」の名を用い、永禄10年生まれとした。

参考文献:橋場日月『真田三代』(学研M文庫)